存在の病、あるいは孤独な絶望者の手記

存在の病、あるいは精神的地下室の手記

人生に絶望した男の精神的リハビリ雑記ブログ──人生哲学、思想っぽいもの、小説、詩、本の感想など

遺伝子は隠しパラメータみたいなものであって、遺伝子が人の性格や人生のすべてを決定するわけではない【前編】

f:id:nukoyamanuko:20161211232253j:plain
身体の表面を拡大していくと…



keyword
人生  性格  内向型人間  外向型人間  セロトニントランスポーター遺伝子  HSP(Highly Sensitive Persons:過敏性症候群)  利己的な遺伝子


要約


・僕はネガティブで自意識過剰でコミュ障な人間である


・人の性格は大まかに内向型(内気)と外向型(社交的)に分けられる


・人が内向型人間になるか外向型人間になるかは、ある程度遺伝的に決まる


・例えば、セロトニントランスポーター遺伝子は、脳内のセロトニン分泌量に関わっており、人によってこの遺伝子のタイプが異なる


セロトニンは抑制型の神経伝達物質で、心身の安らぎを感じさせる役割がある


セロトニン分泌量が遺伝的に少ない人間は、不安を感じやすく、内向型の性格になりやすい


・また、人は生まれつき神経過敏な人(高反応)とそうでない人(低反応)とがいる


・高反応型の人間は、臭いや音や他人の心理に過敏に反応するので、些細なことで動揺しやすく、精神的に疲れやすい


・低反応型の人間は、外界の刺激に(良い意味で)鈍感なので、活動的で他者と積極的に関わっていく傾向がある


・極端に高反応なタイプのことをHSP(Highly Sensitive Persons)と呼び、人口内に一定の割合で存在する


・このように、人の性格は遺伝的にある程度決まっている


・僕が内向型で暗い人間になってしまったのは、遺伝子のせいであり、遺伝子のせいで人生ハードモードになってしまったといえる


・しかし、遺伝子にとってみれば、一人ひとりの個体の人生がどうなろうが知ったことではない


・遺伝子は利己的に自らの生存を追及するだけであり、個々の生物個体はその乗り物に過ぎないからである



※【後編】はこちら



目次




我思う、ゆえに我憂鬱




やはり僕は存在する意味のない人間だ。最近はイライラしたり憂鬱になったりすることが多い。僕がいるせいで、周囲の人間に迷惑がかかっているんじゃないかと思ったりする。いや、別に僕が何かをしたというわけではないんだけど…。






僕はコミュ障で、職場では基本的に仕事以外の話はしない(おしゃべりってどうやるんだっけ?)だから周りの人間は僕が何を考えているのかわからなくて、僕のことを不快に思ったりしているかもしれない。






僕はいつも周囲の人間に疎まれているような気がしてならない…。もちろん、これは僕の自意識が過剰なだけで、周囲の人は僕のことなんて別にどうとも思っちゃいないのかもしれないが…。






そう思うんだったら何か話せばいいじゃん──そう思われるかもしれない。しかし、じゃあ一体何を話せばいいというのだ? 天気の話でもすればいいんだろうか? だが、その後はどうする?






「良い天気ですね」
「そうだね」
「・・・」
「・・・」






ってなりそうでこわい。いや、なるだろう。自分から話しかけといて沈黙とか…。だったら最初から話しかけない方がいいんじゃないか? そんなふうに考えて結局自分から話しかけるのをためらう。






いや、やはりこれは僕の自意識過剰がいけないのかもしれない。僕は余計なことを考え過ぎる。いつだってそうだ。変に思考を巡らせ過ぎて、コミュニケーションがぎくしゃくする。余計なこと考えなきゃいいのに…。そうすれば人との会話だって自然にできるかもしれないのに…。思考の過剰が僕を無駄に苦しめる。






哲学者のルネ・デカルトは「私は考える、ゆえに私は存在する(我思う、ゆえに我あり)」という哲学を語った。たとえ身体が無くとも「考える私」さえあれば、私は存在しているといえるんじゃね? っていうアレだ。



方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)




どういうことかというと、たとえば、あらゆるモノゴトを疑ってみる。…目の前にある机やスマホ、テレビやラジオから流れてくる映像や音声──これらは実は本当には存在していないのかもしれない。私の目や耳がとらえる錯覚に過ぎないのかもしれない。






私が現実だと思っているこの世界も、実は夢の中なのかもしれない。マトリックスみたいに、本当の世界は実は別のところにあるのかもしれない。私の身体も偽物なのかもしれない。私の感情も脳の産み出す幻想に過ぎないのかもしれない…。






こういうふうに全てを疑っていったら、本当に存在するものなんて何もないように思える。しかし、一つだけ確かに存在するものがある。それは「これは幻想なんじゃないか」「実体なんてないんじゃないか」と考えている「私」の存在である。






たとえ身のまわりのあらゆるモノゴトが幻だったとしても、たとえこの世界が幻想に過ぎないものだったとしても、たとえ自分の身体が精巧によく出来たアンドロイドだったとしても、「これは幻想なんじゃないか」「偽物なんじゃないか」と考えている私そのものは、疑いようもなく実在している。






したがって「私は考える、ゆえに私は存在する」といえる──こんなふうにデカルトは考えたそうだ。そしてこの言明を「哲学の第一原理」と呼んで、ドヤ顔で自身の思想を語った(たぶん)。






僕にとっては、デカルトのこの「第一原理」はかなり深刻に思える。なぜなら、僕のように余計なことを考え過ぎてしまう人間は、その存在もまた過剰になってしまう気がするからだ。思考を過剰に巡らせるせいで、「私」の存在もどんどん肥大化していく。






僕の場合、私は考え過ぎる、ゆえに私も過剰に存在するのだ。肥大化する「私」という存在が僕の精神を蝕んでいく…。これが僕の苦悩の原因たる存在の病である。






「存在の病」というネーミングは、大げさといえば大げさかもしれない。これは、なんていうか…もう中二病的なアレなのでそっとしておいて欲しい。要するに僕はただの自意識過剰なネガティブ人間なのだ。僕がネガティブなのは、おそらく僕が内向型人間だからだろう。






全部遺伝子のせいだ!




基本的に内向きで、誰かと居るより一人でいる方を好むような人間──それが内向型人間。その反対は外向型人間だ。今の世の中では外向型人間の方が社会的には好ましい人格として描かれる。社交的でコミュ力があってノリが良くて活動的な、そんな外向型人間を社会は良しとする。






もちろんこれらの性質の内、一つか二つくらいなら欠けてもいてもOK。ノリが悪くても、コミュ力があって活動的であり、最低限の人付き合いができるならば、その人は社会で上手くやっていけるだろう。






だが、僕は…おお、なんということだろう! 僕はこれらの性質の全てが見事に欠落しているのだ! 非社交的でコミュ力ゼロでノリが悪くてひきこもりな人間──それが僕なのだ!






なぜ僕はこんな社会不適合的な超内向型人間になってしまったのだろうか? それは僕がこれまで積極的に人付き合いを避けてきたから…なのか? 人付き合いから逃げ続けたせいでこうなった…のか?






確かにそれもあるだろう。しかし、それだと全部自分のせいになるではないか! そんなのはあんまりだ! むしろ、こうなったのは遺伝子のせいなんじゃないか。僕の中に内向型の遺伝子があって、そのせいで僕は内向型人間になってしまったんじゃないか?






スーザン・ケインというアメリカのライターが、内向型人間のことについて書いている。






この本によれば、内向型になるか外向型になるかは、ある程度(40~50%)遺伝的に決定されるそうだ。その理由は、一人ひとりの人間のもっている神経系の性質に、生まれつきの違いがあるためである。






どういうことかというと、たとえば、生まれて間もない乳幼児は主に「高反応」と「低反応」の二つの気質タイプに分けられる(気質とは生まれもった性質のこと)。






高反応の気質をもつ乳幼児は、物音や臭いや映像といった外界の刺激に敏感に反応する。逆に低反応型の乳幼児は、外界の刺激にさほど反応しない。






高反応型の子どもは未知の物事に対して消極的である。たとえば、初対面の人に会うとか、知らない土地へ出掛けるとか。反対に低反応型の子どもはそういうことに積極的である。なぜなら、そういう未知の物事を体験することは、強い刺激にさらされることになるからだ。






高反応タイプの子どもは刺激に敏感なので、未知の物事にさらされ続けると気が滅入ってしまう。反対に低反応タイプの子どもは刺激に(良い意味で)鈍感なので、未知の体験を積極的に楽しむことができる。






高反応の子どもは刺激に弱いので、大勢の中でワイワイやるのが苦手だ。彼らは一人か、あるいは少人数で静かに時間を過ごすことの方を好む。






逆に低反応タイプは、強い刺激にされされても平気なので、大勢でパーティをしたり、初めての土地へ出掛けたり、知らない遊びをやってみたり、音楽をガンガンかけたりすることを好む。






おそらく、「ひきこもり」には高反応型が多く、「パーティーピープル(パリピ)」には低反応型が多いんじゃないだろうか?






このように、個々人のもつ神経系には高反応型と低反応型の違いがあり、それがその人の性格形成に強く関わっている。






要するに、高反応は俗に言う「か細い神経」をしている人、低反応は「図太い神経」をしている人のことである。前者は「内向型人間」になりやすく、後者は「外向型人間」になりやすい。これらの傾向は気質によるものであって、すなわち、ある程度遺伝的に決定されている






もちろん、高反応か低反応かというのは程度問題であろう。全員が極端な高反応や低反応に分類されるわけではない。大部分の人は高反応と低反応の中間あたりに位置しているだろうし、たとえ高反応に生まれた人でも、必ずしも内向型になるわけでもないだろう。






だが、内向型か外向型の人間になるのはある程度遺伝的に決定されているという視点は重要だと思う。特に僕にとってはね!






つまり、僕が社会不適合的な人間になってしまったのは、ほとんど遺伝子のせいなのだ! 遺伝子のせいなのであって、僕自身が悪いのではない! 遺伝子のせいなんだから、しょうがないだろうが!






僕がネガティブで憂鬱になりやすいのも、遺伝子のせいなんだ! きっとそうに違いない。…いや、実際にそうらしい。






憂鬱な気分というのは、脳内にセロトニンという神経伝達物質が不足している状態だ。セロトニンは精神を安定させる物質だが、これの脳内生産量を決めているのがセロトニントランスポーターないし5-HTTLPRと呼ばれる遺伝子だそうだ。






この遺伝子は人によって(人だけじゃなくアカゲザルでも)長さが違う。この遺伝子が短い人は長い人よりもうつを引き起こしやすく、また高反応との関連もあるらしい。ということは、明らかに僕はこの遺伝子が人よりも短い可能性が高い。いや、たぶんそうだろう。






はぁ…どうして僕は高反応型に生まれてきてしまったのだろうか? 高反応は何かと損なことばかりだ。僕はいま一人暮らしをしているわけだが、部屋の壁から伝わってくる、隣人のちょっとした生活音がいちいち気になって、イライラしてしまう。






職場でも、他人の表情や声のトーンの微妙な違いに敏感に反応してしまって、「今アイツは僕に嫌悪感を抱いたんじゃないか?」「不快感を示したんじゃないか?」みたいな被害妄想をつい膨らましてしまう。






外界はいろいろな刺激に満ちているから、生きてるだけでもう疲れてしまう…。こんな敏感な神経系なんてもっていなければよかったのに…。高反応な神経をしているせいで、僕は何だか生きづらい…。






利己的な遺伝子の残酷さ




それもこれも、全部遺伝子のせいなのだ。くそ! 遺伝子が憎い。なんで遺伝子によって人生が左右されなくちゃならないのだ! くそ、遺伝子め!






…しかし、遺伝子にしてみれば、一人ひとりの人生なんてどうだっていいのかもしれない。生物学者のリチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』の中で、個体は遺伝子が生き延びるための乗り物に過ぎないと主張した。



利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>




すなわち、生物にとって大事なのは遺伝子が生き延びることであって、個体が生き残ることでも、「種」が保存されることでもない。遺伝子は自らの複製(コピー)を作って、次々と子孫の身体に乗り移っていく。個体はやがて死ぬが、遺伝子は子孫代々の身体に乗り移りながら、いつまでも生き続ける。






遺伝子にとってみれば、人間一人ひとり、生物一匹一匹の人生がどうなろうと知ったこっちゃない。自らのコピーが子孫に残りさえすれば、それでいい。そこには何らの動機も目的もない。遺伝子は盲目的に自らのコピーを生産し続け、それを後世に残そうとする。ただ、それだけだ。






僕ら一人ひとりの個体は、遺伝子たちがつかの間とどまるための、ただの容れ物に過ぎない。遺伝子は利己的に自らの生存を追求する。個々の生物体は、遺伝子たちが地質学的な時間を旅するための一時的な乗り物に過ぎない。役目を終えたらあっさりと乗り捨てられる。その事を実感する出来事が僕の部屋の中で起こった。






チャタテムシという体長1mmにも満たない、ちっちゃい虫がいる。こいつは湿気を好むやつで、本に巣くう虫として、本好きの間ではおそらく有名な虫だ。湿気の溜まりやすい本棚の中によく発生する。2年ぐらい前だったか、最悪なことに僕の本棚にもこいつが発生してしまった。






チャタテムシは繁殖力が凄まじい虫で、単性生殖でどんどん増えていく。つまり、セックスなしに繁殖することができるとんでもない奴だ。こまめに掃除しないと、あっという間にワサワサと増殖して、絶望的な気分にさせられる。






一度こいつが発生すると、撲滅させるのは至難の業だ。なんせ、単性生殖なので、一匹でも生き残っていたら再び増殖していってしまう。しかし、よ~く目を凝らさないと見えないようなやつを、一匹残らず駆除するのは非常に困難だ。






僕はもうこのチャタテムシを何百匹と撲殺してきたが、しばらく放っておくとまた勝手に増えている。いまだにこいつはいなくならない。ホントもう嫌になる…。






でもこいつらを見ていると、生物個体というのは本当にどうでもいいものなんだな思えてくる。たとえ何百匹、何千匹、何万匹と殺されようとも、チャタテムシの遺伝子は執拗に自らのコピーを大量に生産し続ける。






個々のチャタテムシがどうなろうとも、遺伝子にとってはどうでもいいことのようだ。大事なのは遺伝子そのものが生き延びることであって、個体ではない。だから無数のチャタテムシが殺されようとも、遺伝子は淡々と複製を続ける。それが宿命ででもあるかのように…。






もし、これが生命の本質であるのなら、それはとてもつもなく残酷なことではないだろうか? 生物の主役は遺伝子であって、個体はその付属品に過ぎない…のだろうか?






もしそうだとしたら、じゃあ、僕という存在は一体何なのか? 僕がこんなにも人生に悩んでいるというのに、僕の遺伝子にとってみれば、そんなことはどうでもいいということだ。僕という一個体がどうなろうが、遺伝子は自らのコピーが生き残ればそれでいい。






僕の遺伝子は父と母からそれそれ半分ずつ受け継いだものだ。僕には弟が一人いるが、弟もまた僕と同じ両親から半分ずつ遺伝子を受け取っている。






ということは、僕と同じ遺伝子が弟の中にもいくらか存在している。だからたとえ僕がここで野垂れ死のうとも、同じ遺伝子をもつ弟が生き延びて子孫を残してくれれば、遺伝子はそれでOKなのである。それが「利己的な遺伝子」だ。






そう考えると、人生はひどく虚しいもののように感じる。僕という人間が生まれた意味も存在意義も、実は何にもない。単に遺伝子が生き延びるために、たまたま乗り物として存在しているに過ぎない。別に「僕」じゃなくたっていい。遺伝子にとってみれば誰だっていいのだ。






僕の中におそらくあるであろう、内向型の遺伝子。この遺伝子だって、僕が内向型で悩んでいようが何だろうが、知ったこっちゃないのだ。






遺伝子は盲目的にひたすら自らのコピーを子孫に残すだけ。だから、内向型の遺伝子は至るところにバラまかれている。実際、高反応型の神経系をもつ人は一定の人口数を占めているらしい。特に、極度に敏感なタイプの人をHSP(Highly Sensitive Persons:過敏性症候群)と言うそうだ。






内向型で悩んでいる人は、少なからずいる。にもかかわらず、内向型の遺伝子は、そんなことお構い無しにどんどん自らのコピーを量産し続ける。…なんということだ。遺伝子め、ふざけるなよ!






ああ、絶望だ。一体僕の人生が何だというのだろう? もし、僕が低反応型に生まれていれば、こんなことでいちいち悩まなくてよかったのかもしれない。低反応に生まれていれば、もっと楽しい人生を送れていたのかもしれない。






ああ、何で…。何でだよ…。なぜ遺伝子は僕をこんな人間にしたのだろう? どうして僕がこんな絶望を抱えなくちゃならないのだろう? 僕はこれからどうやって生きていけばいいのだろう?






天使:ハァァァァァ~~~。アンタってホント馬鹿ね。馬鹿過ぎて見てらんないわ。






ぬこ(僕):うゎっ⁉






──気がつくと、僕の背後にはいつの間にか天使がいた。背中の羽をパタパタさせながら、少女は吐き捨てるようにして露骨なため息をついた。






   ───【後編】へ続く